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2023.6.1自然のまんまでいたいからね
SNSを手放しました。ブログは加味されるのだろうか?唯一の発信をどうかお許しください。
何故そうおもったかを、綴ろうかな
何か感覚的なものがいつもわたしを導いてくれていて、主人と出逢ったことも、この地に暮らしの基盤を構えたこと、今の暮らしをする経緯、すべて薫りを感じるように、流れてきたのです。
SNSをはじめた理由は何か発信しないと、告知しないと、誰も見つけてくれないでしょう?という不安からだったような気もするし、何かをはじめたら発信しするというあたりまえの風潮にただ乗ったのだと思う。
もちろん感覚を散りばめた何かを、画面越しに誰かが拾って、出逢いに繋がるのだと思うし、私自身助けられていることが今までもこれからも沢山あるわけだから否定でもなく。そしてこの先もお世話になり続けていくのかもしれない。
ただ、ひとつ。
“土螢はどうなんだろう?”
この疑問が、明朝の私へひらひらと舞い降りてきて、手放しと解放の一歩を歩もうと思った。
旅人と衣食住をともにするということは、その人がなぜ今日ここに来て、どんな話がしたくて、どんな時間を過ごしたくて…と目には見えないのだけれど、呼吸のリズムや、穏やかな瞳、あなたを感じることを3年間、大切に積み重ね続けてきた。
だから故に土螢は、外へ何かを届けるよりも、内へ内側へわたしたちがどんな心持ちで旅人を迎えているのかを大切にして綴っていくことがとても重要であることに気づいた。
手を動かして、紙やペンをとること。電話に慣れなくて少し生唾をのむこと、ひと声発声すること、そのちいさなひと手間が、土螢には、旅には、とっても大切なことなんじゃないかな。
お金のことも。この際なので。
キャッシュレス決済の案内を企業さんからよく受けていたのだけれど、頑なに断り続けている。
理由は、感性を鈍らせるから好きになれない。
土螢の一泊の値段をどうすべきなのか、3年経ったいまも考え続けている。できることなら、旅に出ようか。と本腰を入れてくれた人たちを昔の宿場のように迎えてあげたいのだけれど。
決して安いとは言えないお金を、なんの感触もなく数字の計算をするように引き落としたり、振り込んだりという空気感がわたしのなかでどうしても、いつまでも、好きになれなかった。
旅人が家に来るまでに、私は床を磨き、蜘蛛の巣をとり、薪を割って、暖を取れるようにして。糠床を元気にするのもわたしの仕事であるし、食材を生かすこと。なるべく無駄をださず、家庭の味を作ることも。暮らしを感じながら、手間ひまをかけている。
お札の感触を触った時、あぁこれがお金なんだ。これが稼ぐなんだ。と生で実感する。
不便だろう、と感じるかもしれないけれど。それ以上に、不便を美学のように捉えたい私がいるから、仕方がない。
きっと昔の人々は、土で汚れた手のひらで一生懸命小銭を数えただろうし、お金の感触、触った後の鉄くさい香り、薄汚れても生きた心地のする財布を握りしめていたのかなあ。
だから経験を、ひとつの動作をなるべくあるがままそのままで人の営みを感じていたい。
流木や石ころが、ただそこに存在するわけではなくて、沢山の年月と日々があって辿り着いて、姿形が変わっていくことと同じように。あらがわず変化していきたい。
わたしが誰にも負けないで、私自身の感性を大切してあげる。しっかり耳を傾ける。この地で、土螢が待っていることが、誰かを安心させてあげる一番の薬になるのではないかと思って。
わたしはね、そんな生き方がしたいから、そうする。
そして、はじめちゃん。いつも勝手を許してくれて、信じてくれてありがとう。あなたがいるから、わたしがわたしを大切にしてあげられています。理想の郷を一緒に育てていこう。
愛しています。