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お母さんと循環

今日主人のお母さんの誕生日である。先日よそで青柚子をもらった私は柚子胡椒を作ることにして、南蛮を夫実家に取りに行くことに。すると、お母さんは餅米でおこわを炊いていて、それを子供家族へせっせと届けていた。

南蛮は終わりの季節を迎えるのに、無理言ってお裾分けしてもらった。いつもわたしは急なのに、おいで、と連絡をくれる。

夕飯食べていきな〜とささっと振る舞う。そんなお母さんは、あしたが誕生日。

主人のお母さんは物腰が柔らかくてとにかく優しい。24歳で結婚した私はまだまだ考えも青くて、成熟しないままにたくさんの迷惑もかけてきた。けれど、決して非難せず、ずっとずっと優しくて、いつも美味しいご飯を作って食べさせてくれる。見守ってくれる。

親族が集まるとなると、皆でお母さんの振る舞いを楽しみにして、いつまでもいつまでも、台所で立っている。目を配り、気を配り、心配る。食べな食べなと私たちが大人になっても、永遠の子供のように優しさ、愛をくれる人。

主人は自他共に認めるお母ちゃんが大好きだ。マザコンだなんて言葉があるけれど、依存する関係ではない。心底大切に想っているということ。照れ臭くて中々本心は言わないようだけれど。お母さんを大切にできる主人を私も大好きで、気づけば出逢って11年。主人のお父さんやお母さんが、私は大大大好きである。

私の母は若くして病に倒れたので、気づけばいつからかしっかりしなきゃ。と背伸びをする時期が早かったのかもしれない。その”無理したしっかり”には、綻びも沢山あった。けれど、主人のお母さんの優しさに沢山包んでもらって、私の母とはまた違う、”おかあさん像”を教えてくれた人。

名もなき花のように、野草のように、日陰にいるようで、本当は私たちの根っこの部分を温めて太陽のように光をとどけてくれる。

結婚をして、もう一人のお父さん・お母さんに私は、出逢わせてもらった。

心底、有難く幸せなことだと思った。

【 循環する、めぐること 】

こうして、優しさや愛は、巡り目に見えぬ人の縁の中で、環を巡っていく。

両親からの愛や、友や、恩師からの愛も。隣のご近所さんや、隣に座った見ず知らずの人の愛。

不遇な出来事や、悲嘆する事は生きる上で起きてしまう。ただ、それも巡り巡って、時間や循環する優しさに私たちは癒されていく。

こうして、私が偶然にも家族になった人のその先に出逢う人たちに、わたしはいつも巡り巡って愛されていて、巡り巡って愛することができる。

私の中の土螢という場所は、私が何気なく生きる道の中でたくさんの人に手助けしてもらい、受け優しさの循環であると思う。辛く暗かった日々を今は心底有り難く思えるようになった。

ずっとこの場所が、どこかの誰かの、どこかの家族の、循環の続きであればいいなと思った。

だから私は今日も床を磨き、季節の食を考え、試行錯誤して、悩み挑み、丁度良い塩梅を探しているんだろう。

心地よさというのは、だれでもなく巡り巡った循環であるということ。一つ一つの記憶が、あんな時もこんな時も、こんなことあったなぁ。と今更思い出すのは、無知だった私の五臓六腑に味が染み込んでいるからだと、思った。

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