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2025.2.3廻る

【 2025年1月 】
数週間前、姪が誕生した。愛犬エマが息を引き取る数十分前に姪はエマとテレビ電話で挨拶を交わしたところだった。
今思うと、命のバトンパスのような時間だったのかもしれない。新たに生を受けた命はすくすく育ち、いろんな気持ちを湧き起こしてくれる。不思議なタイミングだったけれど、喜ばしい気持ちが悲しみを苦しく暗いものにせず、優しく和らげてくれていて、廻る生命を体感したひと月だった。
愛犬エマは、森の榊の木の下で眠っている。寒さ沁みる季節だけれど、庭からの日差しが柔く温かい。一緒に穏やかに私たちのことを見守ってくれている気がして、彼女の優しさにまだまだ私たちは包まれている。
そして共に追悼の想いを届けてくれている人々に、改めて彼女が生きた時間を想わせてくれる。心からの感謝を伝えたい。

【 2025年2月 】
2025年節分、2日。また一人我が家を旅立った。ニュージーランドからの留学生エマ(たまたま愛犬エマと同じ名前)は、母国に10ヶ月ぶりに帰国した。
学生を10ヶ月預かることは初めての経験。子供と大人の境目の十代は、大人になったわたしたちにいろんなことを思い起こさせてくれた。彼女が居たことで、二年生の娘も成長への憧れがより強まった様子だった。

私たち家族だけでなく、友達や関わった人々が彼女との別れを惜しんだ。いろんな人に愛されるというのは、愛犬のエマと一緒だ。愛されキャラの我が家の自慢の家族たち。見送る淋しさはあるけれど、その気持ちよりも、好きなことに真っ直ぐに、羽ばたいてきなさい。っと大きく背中を押して見送ることができた。彼女にはしっかりと夢があって、その夢は私たち家族にとっても、近い未来の目標となった。いつか彼女が大人になった時、滞在した日本での経験が必ず生きてくる日が来る。ここは最終地点ではなく、通過点なのだ。
一年、彼女の日本での生活に親代わりとして、家族になれたことを心から有り難く思う。そして彼女との暮らしをサポートしてくれた仲間たちに改めて感謝を贈りたい。

駆け足の睦月だった。いろんなことがめぐりめぐっていき、”いつまでもずっと、永遠に”ではないこと、限りある時間をより意識する日々を送った。
ずっとそばに居そうな気がしていただけで、実際は誰しも有限の時間のなかで生きていること。終わりではなく、はじまりでもあること。時に大きな出来事や悲しみもあるけれど、その中でも生きる喜びや、小さな灯火、有難さを見つけて一歩づつ、一歩づつ、歩んで行くこと。
愛犬エマを弔った後に、娘がこんなことを話した。
” これだけしかない、と思うと辛くなるけれど、こんなにもあると思うと気持ちが柔らかくなる。辛いじゃなくて、ありがとうがいっぱい溢れてくるから、私はつらくないんだよ。エマがいるんだよ。”
幼少期から5年間、エマと共に育った娘は逞しい少女へと成長した。私の子育てはエマと共に在ったこと、しっかりと彼女の根っこに生きている。

5年半ぶりに三人家族に戻った我が家は、宿以外の日常で家族+α” 誰かの予定 ”が当たり前だった。今年は、それぞれがそれぞれの道を、じっくりと歩むことになりそうだ。
子育てとしての母さんでもなく、夫婦としての妻でもなく、介護としての娘でもなく、”わたし”に向き合う余裕が生まれた。
これからも誰かのための時間を割いていくだろう。けれど束の間の”ひと呼吸”の時間は、次の何かの為の”余白”だろう。
廻る生命の中で、限りある時間の中で、わたしがどう生きるか、足元を照らす時間が少しずつ動きだした。